大学人から見た高専のよいところ

斎藤英俊(長岡技術科学大学 副学長)


1.はじめに

 最近、わが国のほとんどがニンジンになっている。どういうことかというと、ニンジンが自分で自分を美味しいと叫んでいるのだが、みんながみんなニンジンだから叫んでも誰も聞いてくれない。こういうときには八百屋が「このニンジンは甘みがあるよ」とか、シェフが「こう煮ると口の中でとろけるよ」とか、調教師が「目の前につるせば、馬が走る」など、宣伝してくれる人がいなければいけないのだが、どうもそのような役割分担を社会が忘れかけているように感じる。そのニンジンが今日、大学だったり、企業だったり、役所だったりする中で、筆者は仕事柄、高専の美味しさとはなにか、それを知っている人たちは誰か、そういう人たちが宣伝してくれるにはどういうモチベーションが必要か、そのようなことを毎日考えている。本稿では高専の美味しさについて、シェフになったつもりで宣伝する。

 

2.コミュニケーション能力
 高専生のコミュニケーション能力は最高だ。もし「そうですか?」と疑問を持つ人がいたら、それは美味しさを知らない消費者か、ニンジン自身である。ニンジンは自分を味わえないから、どうやったってわからない。
 全国の高専にはほとんどに学生寮がある。長ければ入学から卒集まで、寮で生活する。昼間は長ければ5年間、クラスのメンバーがあまり変わらずに進級していく。寮にしてもクラスにしても、これだけ長い間、同じ釜の飯を食べていく教育システムは高等教育においてはそうそうない。そういう環境では、どうしてもお互いが相手の中に臍み込まぎるを・得ない状況になる。要するに、兄弟(姉妹)に近い生活を送ることになる。
 通常の人間生活において、赤の他人がある一線を越えるということは、夫婦になって生活するということにも等しく、裸の付き合いで一緒に娯楽するし、同じ部屋で毎晩寝るということになる。しかも寮においてはかなり狭い(場合も散見する)1部屋で学生4人が寝食をともにするということもあるわけだ。昨日まで中学生だった新入生にとって、これほどのストレスはこれまでに経験したことはなかっただろう。そして、そのストレスを克服するためには、相手を受け入れるためにかなり鈍感にならなければいけない部分ができるし、自分が相手の迷惑にならないように相当繊細にならなければいけない部分もできるわけである。
 確かに、このような環境で5年間を過ごすと、ある時期から他人が他人でなくなっていく。お互いが空気のような存在になっていく。熟年夫婦がそうであるように、これは、究極のコミュニケーション能力が備わった結果であるとしかいいようがない。阿時の呼吸であり、会話をしなくても2人の雰囲気が次の行動を促すようになる。
 一般的な社会では、若いうちのシャッフルは当然で、そういう世界で生きていくためにはある程度の自己主張が武器となる。そういう環境で育った人々が、シャッフルをほとんど経験していない元高専生と触れ合うと、元高専生があまりにもはっきりと表現してくれないものだから、そういう人々は「コミュニケーション能力不足」と元高寄生にレッテルを貼る場合があるように感じる。元高専生は、「それはレッテルを貼る人がそのレぺルに達していない」と貰いたいのだが、「きっと、いつかわかるだろう」と元高専生はやはり何も言わない。高専を出た人はまじめでおとなしいのである。 これが、長岡や豊橋にある技術科学大学に編入学すると、なにも困ることがない。全国の高専出身者が集まるわけだから、阿時の呼吸、雰網気だけで行動できるのだ。入学式が終了すると、さまぎまな高専から集まってきた若者全体が2〜3日でクラスになってしまう。要するに、みんな同じ匂いがするのである。高専に5年も遭えば、どこの高専だろうと共通する匂いが染み付いてくる。山鹿染み付いた匂いはそうそう消えるものではない。
 技術科学大学にいる限りは、「高専生はコミュニケーション能力不足」と言われても、学生には何のことかわからないのである。
 技術科学大学に編入学しなくても、社会にでてから出あった相手が高専卒というだけで、お互いで妙に親近感が湧くし、多くの場合、すぐに仲良くなる。「大学卒です」と自己紹介しあっても、そこから湧いてくる親近感などあるわけはなく、ここに究極のコミュニケーシヨン能力を見ることができる。
 阿吽の呼吸で行動できる痍解毒集団と自分を主張しながら戦っていく技術者集韓と、さてどちらのコミュニケ押ション能力が高いか、要するに商売上事な八百屋、優れた味覚を持つシェフ、腕のよい調教師がそれぞれを使いこなせばいいだけの話である。

3.ネットワークの深さ
 よく人的ネットワ岬クが広いということがはめ青葉で使われる。しかしながら、ネットワークが深いとは貰わない。元高専生はネットワークが深いのだ。音は、高専に入ると5年間同じクラスでいくことが普通であった。1年生のときから毎日、毎時隈、出欠をとる教農の声を開いている。これが5年間続くとどうなるかというと、出席番号麟に同じクラスの学生の名前をいつまでたっても貰えることになる。安藤、飯島、市川、大石、大垣、大野、大橋、香取、亀崎、川原……。卒業から28年たった今でも、全員の名前を雷うことができる。
 名前を忘れていなも〕ということは、その人の存在を忘れていないということだ。音の顔しか覚えていないけれども、名前を忘れなければ、クラス会で集まっても「どちら様でしたか?」ということはない。
 これは技術者(ばかりではないが)にとって、たいへん重要なことである。同級生の誰々が何処の会社で何をやっていると常に情報が回っても七るので、関連する仕事で困ったときに、すぐに相談できる。そして阿吽の呼吸ですぐに動くことができる。もちろん同じ時間軸で年齢を重ねていくわけだから、重要なポジションに着くのも同じような時期であるから、なにかと都合がよい。

 

4.高書出身と貰わない奥ゆかしさ
 これはあまりよいところとは思えない。すばらしい教育を受けてきたはずなのに、「私は高専出身です」とはいわないのだ。筆者の大学でめ教え子で、ある有名な自動車メーカーに勤めている人が結婚式を挙げた。筆者が座った丸テーブルには彼の上司と彼の同僚4人が座っていた。上司の方と挨拶をしていたら、その方が「私は高専の出身です」と自己紹介してくれた。そうしたら、部下の4名が口々に「私も高専出身です」と自己細介を始めた。ぴっくりしたのは、上司を含めて5名ともお互いが高専出身だと知らなかったことだ。社内の同じグループに集まってきたというのは、なんとなく同じ匂いのする人たちのそれぞれの適正が合致したのだろう。とはいっても、やはりお互いが高専出身といいづらかったのは事実なのだろう。お互いが高専出身とわかったときのあの嬉しそうな顔がそれを物語っていた。
 平成17年魔の国勢調査によれば、わが国には技術者が2,140,612人いる。全国の国公私立高専が送り出した卒業生は棚方人弱だから、そのうち10万人が技術者を離れたとしても、10人に1人以上は高専出身なのだ。実際に、新卒技術者が毎年10万人誕生し、そのうち高専出身(高専卒+大学編入後卒)は約1万人だから、それほど外れた数字ではないだろう。
 ある年齢で考えれば、ほとんどの人が高校に通い、高専に通っている学生は一昔前なら200人に1人だったから、「マイノリティなので高専出身といわないのだ」と説明されてきた。しかしながら、これはニンジンをまったく理解していない八百屋の発想か、あるいはニンジンそのものの思い込みである。技術者という活躍すべきフィールドの申では、高専出身者がわが国ではもっとも大きな勢力・グループなのだ。日本の技術を主として支えているといっても過言ではない。

5.学生と向き合う高専
 コミュニケーション能力、ネットワーク、そして人格を学生と向き合いながら育てるのが高専である。旭川高専を訪問したときの詣である。高専内にAED拍動体外式除細勤器)が5台設置されていた。ところで何人くらいが使えるのだろうとちょっと意地悪に「講習会を受講された方は何人いますか?」と質問したら、高橋英明校長が「教職員全員です」と自信を持って答えてくれた。校長自ら消防の普通救命講習を受講して、修了証を得ているそうで、学生と向き合う高専教育ならではの文化だと感心した。
 その後インターネットで詞ぺたら、全国の高専でAEDの使用に関する講習会を開催していることがわかった。その中で、2009年に沼津高専でAEDの使用による救命例があることを知った。同高専のグラウンドで、寮生同士でサッカーの試合をしていた時、副寮長(4年生)がシュートを放ったあと座り込むように倒れた。その後直ちにAEDによる除細動と心肺蘇生法が実施され、社会権帰できたようだ。市消防本部によると、市内で一般市民がAEDを使って救命したのは初めてだというコメントまであった。高専生が社会において稀なことをやってのけたのだ。
 わが国のAED適用例11,700人(2005年から2007年まで)の社会復帰率は14髄で、そのうち沼津高専のように、バイスタンダー唱撃者)によるAED通用があった例はわずか462人であり、その1ケ月以内の社会復帰率は31.6髄である。わが国では社会復帰例そのものがそう多いとはいえない状況だし、全国の消防の共通認識でもある。それが「沼津で初めて」というコメントが出される根拠なのだ。その後訪問した豊円高専では、さらに驚くことに遭遇した。豊田高専ではAED設置以来、3例の適用例(教員l人、学生2人)があり、全員が完全社会復帰したとのことだった。それは世界的に見ても快挙であり、筆者の仲間であるベテラン救急救命士の10人くらいに聞いたが、一様に「普通ではありえない」と、口々に驚いていた。
 筆者は、この快挙と高専教育の特徴である、コミュニケーション能力、ネットワーク、人格の育成が間違いなく結びついていると確信している。家族のような関係に基づくコミュニケーション能力とネットワークの深さ、そして器械類の取り扱いに抵抗がないといった文化が、社会ではそうそう実現できない連携につながり、AEDによるきわめて短い時間での除細動に至ったのだと思う。要するに、あたふたしたり、迷ったり、知らない振りをしたりしなかったということだ。救命のためには、除細動はl分l秒の早さで実施されなければならない。

 

6.さいごに
 わが国の高等教育機関の中において、一味違う教育体系がこの高専である。筆者は東京高専を卒業し、長岡技術科学大学に進学し、博士取得後に他の機関の教育を見てきている。長岡技術科学大学にて教員として教育研究に従事するようになり、高専出身者のよいところを客観的に見る立場になり、そして今、緑あって全国の高専をじっくりと見て回る立場になった。どのように見ても、高専はわが国の宝である。そして、本稿を読まれている読者諸兄にそのよさを改めて伝えたく筆を執った次第である。

 

技術と教育 2011年3月号(技術教育研究会発行)より転載